連作としての「睡蓮」
>モネの「睡蓮」
「光の画家」と呼ばれていたモネは、同じモチーフを違った時間の違った光の下で描いた連作を多く残しています。
そんなモネの連作の中でも、最も作品数が多いのがこの「睡蓮」で、モネの代名詞ともなっています。
「睡蓮」のモチーフはフランスのジヴェルニーにあった、モネの自宅の庭にある睡蓮の池で、1899年から彼が亡くなった1926年にかけて、あわせて200点以上制作されました。
この池には、モネの他の絵でも時折見ることができる日本風の橋もあり、これは1895年に作られました。
池や睡蓮をモチーフとした作品は、「睡蓮」を描き始める数年前から現れていましたが、本格的にこのテーマに取り組み始めたのは、1899年からでした。
1900年頃からは、モネは他の絵をあまり描かなくなっており、「睡蓮」の連作を描くことに集中しています。
例外となるのは、初めてヴェネツィアに旅行した時に描いた、その土地の風景くらいです。
モネが「睡蓮」を描き始めた頃の絵には、池にかかっている日本風の橋や岸に生えている柳の木なども描かれていましたが、少したつと画面すべてが水面におおわれ、水面に浮かぶ睡蓮や水面に映る樹木や空、水中の水草や茎などが渾然一体となり、1枚の絵として描かれるようになっていきます。
しかし、晩年のモネは白内障を患ってしまい、失明寸前にまでなっていたため、画面はかなり抽象画に近づいていました。
目の調子も良くなく、しばらくの間はあまり制作をしていない時期がありました。
この頃、2番目の妻や実子が立て続けに亡くなっています。
「睡蓮」の大壁画
視力は悪いままでしたが、大画面に描けば何とか制作できることに気付いたモネは、横2メートル、縦1メートルにもなる大きなキャンバスに描くようになりました。
それでも、最晩年には片方の目は強い光が分かる程度にまで視力が落ち、3回にわたって眼科の手術を受けていますが、その頃の「バラの小道」や「日本の橋」をテーマとした作品群では、はっきり目が見えなかったのかほとんど抽象画のようになっています。
そんな中で、モネが描いた「睡蓮」の大壁画が、パリのオランジュリー美術館に寄贈されています。
これは、モネが首相経験のある友人を通してフランスに申し出たもので、「睡蓮」の部屋に他の作品の展示はしないこと、観客と作品の間にはガラスや仕切りなどを設置しないことなど、厳しい条件がつけられました。
しかし、モネは作品の出来に満足できず、一度は寄贈をとりやめようとしましたが、許してもらえなかったために亡くなる直前まで、この絵に手を加え続けたということです。
そして、この大壁画は、モネが亡くなった翌年に正式にフランス国家へ寄贈されました。